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プロフィール
幼い頃から踊ることが好きです。踊りとともに生活し、高校の国語教員として生きています。現在は、一時教職の現場を離れ、兵庫県で国語教育の研究をしています。興味関心があるものは次のとおりです。詩のことば、文学のことば、万葉集、古代歌謡、沖縄の古語(おもろさうし、方言等)、琉球芸能全般(組踊、沖縄芝居等)、民俗芸能(東北地方の芸能、アイヌの古式舞踊)、沖縄の人財育成、教育と身体論、演劇と教育。 多くの方との出会いの中から、自分自身の学びを拡げ、深めていきたいと思います。どうぞ宜しくお願いします。
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2007年09月14日

川村二郎「イロニアの大和」を読む~保田與重郎と私の沖縄

 和歌山の帰りに明日香を訪れ、その後に古書店で川村二郎「イロニアの大和」という本を見つけました。保田與重郎のことを取り上げた本です。文学報国会で大政翼賛運動に参加し、戦後は30年代まで断筆していた保田の姿に興味があり、関係する本を探していました。読み進めていくうちに、この特異な文学者を育てた大和という風土を、これまでと違う視点で考えてみたいと思うようになりました。

 奈良好きの小生は、年に最低1回、奈良を訪れていました。格安チケットがいまよりも全盛のころ(10年前)は、5回…も行っていました。沖縄-大阪が往復2万円という値段で、いつでも求められる幸運な頃でした。実は、なかなか多忙な時期でもありました。踊りと教員をほぼ「ニソクのワラジ」状態で続け、睡眠時間は毎日3時間程度というころでした。若かった。。。
 そんな多忙の小生は万葉集を入り口にしてどんどん奈良にひきつけられました。朝は7:40からの0時限を週4回こなし、60分6コマの授業のあと8時に退庁、9時から夜中の2時ごろまで稽古、帰宅後シャワーに入る気力もなくベッドに倒れる毎日。土日は生徒の模試監督、その合間に万葉の勉強会。そして、踊りの公演(もちろん、公演前には、演奏方との手合わせ等)が次から次へと。。。
 そんな折、だれにも言わず、ひょいと訪れる奈良は、しばし私を解いてくれる土地でした。万葉集片手に、一人でふらふら、ぶらぶら歩くと、必ず面白い出会いがあり、また何回も訪れている場所なのに、いつも新しい感動を与えてくれる等、多忙な小生が、人との邂逅を何より求めて生きている存在であることや、自分の感性をどこに向けていこうとしているのかに気づかせてくれる土地でした。まだ奈良の魅力をはっきり一言で言う事はできませんが、いつも、「大好きです!!!」(←これが発言ではありません)

 さて保田與十郎です。
 これまで私は、文学や言語の延長線上に、「大和」(奈良)を見ていたのですが、保田を通して「大和」(奈良)の虚と実が逆説的に鮮明になりました。厳密には川村二郎の「イロニアの大和」を通してですが、先日、近代文学専攻の教授から、大学図書館に全集があることをうかがい、2,3の論考を読んでみると、予感していた視点がだんだんオキナワと重なりながら、鮮明になっていきました。
 予感してしていた視点とは、「虚」としての「大和」奈良ということです。小生は多忙の日々の中、文学や言語の延長線上に「大和」奈良を据えて、「大和」奈良像の範囲を区切り、その他の「大和」奈良の状況は切り捨てる視点といったらよいでしょう。保田與重郎は、大和を中心とした文化と国家との関係を、文学の中に確立した人間でした。川村氏が指摘するように、保田は「虚」としての「大和」を全国に発信する急先鋒として活躍し、そしてついに、文学報国会において大政翼賛運動に参加します。あの戦争の反省等の問題とは別に、国民は戦時中の保田文学にある種の「大和」魂を見出し、共感していたことを考えると、現在のオキナワの状況とピタリと重なったのです。

 「癒しの島幻想」は、今や疲れた日本人を「虚」の世界に押しやり、翼賛運動的なリゾート情報の嵐のなか、沖縄の「実」は「虚」として捨て置かれる、と感じたのです。

 これは「大和」奈良も同じ。文学・歴史に浸りたい一身の小生は、つい5年くらい前まで、奈良の同和問題が深刻だということを知りませんでしたし、また、われわれが幻想のなかに見出した大和の山々では、少女が拉致、乱暴、殺害されるという現代の暗い一面を映し出す痛ましい事件があったり、ついこの前は、奈良を訪れると弁当等を買うときによく利用するスーパーで妊婦が不幸なことになる等、文学・歴史以外の奈良を排除して、奈良を見ていたのです。

 関西地方に住み始めて6ヶ月、「大和」奈良の「虚」と「実」の中で、しっかり見たいという意志が生まれ始めています。

 ここで「私の発言!」
 見る目を持たなければ、大変なことになりますよ!オキナワが「癒しの島」ですって???報道されていないだけであって、大変なところですよぉ。沖縄への移住を進める月刊誌までありますが、保田與重郎的であり、沖縄の「虚」満載。大変なことになりますよ!そしてオキナワよ、「実」を見ていながら、「虚」を盾に生きるって情けないことではありませんか。県政は保守(虚と実を使い分ける)、国政は革新(虚を肥大させながら実を訴える、或いはその逆)を選ぶという状況は、もはや、伊波普猷が言う「孤島苦」では片付けられないのではないでしょうか。そして日本国民よ、ヒーローなき時代に、ヒーローを延々と求め続けるのもいいけど、そろそろその生き方をやめませんか?だって、いつもヒーローの失態は1mmも許さないで足を引っ張ることに専念し、自分の悪いことは棚にあげ、いつもヒーローに頼りっきりっているというのは、情けないことだと思います。「虚」の部分ではマーガレットサッチャーをチェ・ゲバラで煮出したような、「実」の部分では白洲次郎感覚のゴルバチョフのようなヒーローがあらわれるとでも思っているのでしょうか、日本国民よ、オキナワよ。大変なことになりますよ!

~参考~
(帯情報)
保田與重郎の大和
保田與重郎をめぐる大和文学紀行。
国のまほろば大和の地に刻まれた、無垢なる魂の悲惨と栄光。
悠久と無常の風土に保田文学の根源をたどる傑作評論。
(帯情報裏)
保田を読み始めた頃は旅を嫌っていた若者が、老境に入って、旅の経験もかなり積み重ねて来たその蓄積の上で、保田の大和を眺めた時どのように見えるか、そのことをたしかめようとしたのがこの本である。いうまでもなく現実にはその土地は行政区画としての奈良県であって、そこにひそむ遠い過去の追想は、所詮幻にすぎぬかもしれない。しかし幻にこそ土地の神髄があると考えれば、現実の相はかえって虚にすぎなくなるともいえる。実にして虚、このイロニーの上に保田の大和は浮かんでいると見た所に表題を置くいわれがあった。----後書より
  

Posted by 踊狂教員 at 00:27Comments(2)TrackBack(0)私の発言

2007年09月11日

紀伊萬葉の旅(5)

 

妹と背山の歌碑

 

背山から妹山にかかる吊り橋

勢能山尓 直向 妹之山 事聴屋毛 打橋渡 (巻7・1193)
背の山に直に向へる妹の山事許せやも打橋渡す
(大意)背の山に真向かいの妹山は、背の山のいう事をきいたのか、妹の山には打ち橋を渡していることよ。

吾妹子尓 吾戀行者 乏雲 並居鴨 妹与勢能山(巻7・1210)
我妹子に我が恋ひ行けば羨しくも並び居るかも妹と背の山
(大意)いとしい妹を恋いつつ旅を行くと、うらやましいことに並んでいるよ。妹の山と背の山とは。



  

Posted by 踊狂教員 at 09:36Comments(0)TrackBack(0)万葉集

2007年09月07日

男四人旅(1)

大学院同期の男四人で、奈良に出かけてきました。御馴染みの奈良ですが、同期のメンバーで旅に出るのは初めてでした。明日香の民泊(脇本家)に宿を予約しました。実は、脇本さんの家には、以前も泊めてもらいました。天武・持統合葬陵(檜隈大内陵)が部屋の窓から間近に確認できます。

その宿に着く前に、まず、西の京、斑鳩をめぐりました。西の京は、唐招提寺と薬師寺。唐招提寺の金堂は改修工事中だったので、仏像を見ることはできませんでしたが、會津八一の歌碑が迎えてくれました。




おほてらのまろきはしらのつきかげを
つちにふみつつものをこそおもへ

(大意)大寺の円い列柱が、月光をうけて地上に影を落としている。その影をふみながら。懐古の思いにひたったことだ。(西世古柳平 著「會津八一と奈良-歌と書の世界」より)

金堂の柱は、改修のために金堂を包むプレハブの中にあり、見ることがかないませんでした。入江泰吉さんの写真集に、この「まろきはしら」を中心に映したものがありますが、會津八一が「まろきはしら」から想像したのはギリシャの神殿だったようです。なるほど、奈良の寺で、柱が外に吹きさらしになっているのは、唐招提寺くらいでしょうから、月の光でできた陰影は、日本以外の建物を想起させたのでしょうか。
その後は、大宝蔵で天平の甍の実物を見ました。甍というよりも、鴟尾(しび)が正確。
以前見た、テレビの特集によると、江戸時代に鴟尾のひとつを作り直し、屋根に据えたということです。しかし、この据え方が、なんと、左右を逆に取り付けたらしいのです。実はその間違えた据え方が、雨漏りの原因となり、屋根の木材を腐らしていったということでした。
江戸時代の改修や修復はよく出鱈目だと言われますが、当時としては最高の技術だったのでしょうか。否、古寺が文化財として再評価されたのは、近代に入ってからなので、もしかすると、程度のひくい職人の手によるものかもしれません。失礼ながら…。
鑑真の御影堂を目の前にして、
「この中に鑑真和上座像があるのかぁ」「来年の6月の開帳のときは、必ず来よう」と見ることができないことを残念に思いました。でも、よくよく考えると、最近まで、福岡の博物館で鑑真和上展をやっていたとのことなので、どちらにしても見ることはできなかったのですが…。
鑑真廟を拝んだあと、一路薬師寺へ。



薬師寺の裏門の脇に、萩が花を咲かせていました。秋です。

  

Posted by 踊狂教員 at 22:07Comments(4)TrackBack(0)

2007年09月07日

紀伊萬葉の旅(4)



雑賀浦



番所(ばんどこ)庭園




雑賀浦の歌碑

木國之 狭日鹿乃浦尓 出見者 海人之燎火 浪間従所見
  右七首者藤原卿作 未審年月
紀の国の雑賀の浦に出で見れば海人の燈火波の間ゆ見ゆ 
=紀の国の雑賀の浦に出て見ると、漁師の燈火が波間ごしに見えてくることだ。(中西進)

番所庭園は、次のように説明されていました。



万葉ゆかりの地、黒船見張り番所の跡、元番所お台場の跡。
聖武天皇も訪れたと説明されています。言わずと知れた東大寺の大仏を建てさせた方ですね。その聖武天皇の行幸のときに、藤原卿が詠んだものです。因みに、この行幸のとき、山辺赤人も随行しており、有名な「若の浦潮満ち来れば…」の歌を詠っています。
「…見れば…見ゆ」の型と同じで、一種の国見歌ですが、なぜ、作者は国見を要求される人物なのでしょうか。藤原卿は、未だに誰か分かっていません。「卿」は従三位以上の官人ですので、結構上級の官人だとわかります。
伊藤博氏は、「藤原不比等」説を主張しています。聖武天皇の和歌の浦行幸は、大宝元年(701)10月で、その7か月前の3月21日に大宝令によって、不比等は正従三位に叙せられています。「卿」といえば、不比等をさすに固い期間があったことを考えれば、妥当だと思います。そのほか、房前、武智麻呂説もあるようですが、一先ず、私も「不比等」説に賛同したいと思います。  

Posted by 踊狂教員 at 17:27Comments(0)TrackBack(0)万葉集