2009年03月29日
習得・活用・探究―教員に求められる専門性とは?
PISA型読解力が昨今脚光を浴びているようだ。「新しい~」「新時代の~」と冠する実践研究論文や著書も多く刊行されている。経済大国を自称し、世界の中で注目される日本において、PISA型読解力の育成は、大切なことであろう。
そのPISA型読解力の育成について、習得・活用・探究の視点をどのように取り入れるかは、授業者たる教員の資質によってきまると言っても過言ではない。習得・活用・探究は一言でいえば、学習における専門性ということになろう。よく、基礎を習得し、日常生活に生かすために具体的な活用場面を設定し、その活用場面から一歩進めて多様に応用する視点を持って探究活動に進めると説明されたりするが、容易なことではないだろう。
しかし、見方をかえてみると、この習得・活用・探究の視点は、教員が想定している範囲でしか構成されないわけだから、学習者に求められているのは、「学習」が専門的に(階梯的に)進められるという一点に集約されると言えるだろう。このような視点で考えれば、従来行われていた実践のなかにも、PISA型読解力を育成しているものは、かなり多いと思われる。
問題は習得・活用・探究について、教員がどのような理解を持って取り組むかであろう。ややもすると、習得・活用・探究を単なるアート(技術)ととらえてしまったり、あるいは、ひたすら知識注入型に終始したりという状況がうまれないとも限らない。
要は、アート(技術)と知識が、バランスをとった状態で教員に理解され、さらにそのアート(技術)と知識が子ども以上に豊かであり、親御さん以上に多様であることが求められているのだと思う。
例えば、「近江」をなぜ「おうみ」と読み、仮名付けとして「オウミ」とするのかということに、小学校、中学校の教員はどのように自分自身の知識とアートで応ずることができるだろうか。
教員がもつべき知識は、まず、日本史、国語学(語彙、音韻、仮名遣い)、文学・芸能(万葉・歌舞伎など)、地理等々が必要である。さらに、アートとしては、辞書等による調査方法や概説書等を読みこなす方法などが必要である。そして、興味関心を喚起するべく、魅力的な授業を実践することが求められる。
同様に「関ヶ原」の「ヶ」をなぜ「が」とよみうるのかについても、どのように答えることができるだろうか。
PISA型読解力について論ずる時、ややもすると、従来の授業実践をまず否定する立場から発言することが多く見受けられる。そして、知識をもっているだけの教員は、魅力的な授業を展開する人ではないと言わんばかりの偏った見方で、新しさを強調する論が見受けられる。
これは、おそらくいけない傾向でしょう。。
これは、おそらく危うい論でしょう。。
かねてから、義務教育の教員こそ、専門的知識があるべきだと思っている小生である。
「近江」の「近」は「おう」と読むと機械的に練習問題に取り組むプリントや教材をみるにつけ、教員こそ、習得・活用・探究を日々高いレベルで行うことが大切だと思うしだいである。
インプットからアウトプットという視点は当然だが、その習得・活用の軸を自在に縦軸にも横軸にも動かせる探究とは、専門的知識・技能に裏付けされていると思う。子どもにとっては「学習」における専門性の獲得ということにほかならないだろう。
すこし、固いことを書いてしまったかなと思いつつも、そのままにしておきます。書きたいことは、別のところにあったような気がしますが…。気が向いたら、続きを書きたいと思います。
そのPISA型読解力の育成について、習得・活用・探究の視点をどのように取り入れるかは、授業者たる教員の資質によってきまると言っても過言ではない。習得・活用・探究は一言でいえば、学習における専門性ということになろう。よく、基礎を習得し、日常生活に生かすために具体的な活用場面を設定し、その活用場面から一歩進めて多様に応用する視点を持って探究活動に進めると説明されたりするが、容易なことではないだろう。
しかし、見方をかえてみると、この習得・活用・探究の視点は、教員が想定している範囲でしか構成されないわけだから、学習者に求められているのは、「学習」が専門的に(階梯的に)進められるという一点に集約されると言えるだろう。このような視点で考えれば、従来行われていた実践のなかにも、PISA型読解力を育成しているものは、かなり多いと思われる。
問題は習得・活用・探究について、教員がどのような理解を持って取り組むかであろう。ややもすると、習得・活用・探究を単なるアート(技術)ととらえてしまったり、あるいは、ひたすら知識注入型に終始したりという状況がうまれないとも限らない。
要は、アート(技術)と知識が、バランスをとった状態で教員に理解され、さらにそのアート(技術)と知識が子ども以上に豊かであり、親御さん以上に多様であることが求められているのだと思う。
例えば、「近江」をなぜ「おうみ」と読み、仮名付けとして「オウミ」とするのかということに、小学校、中学校の教員はどのように自分自身の知識とアートで応ずることができるだろうか。
教員がもつべき知識は、まず、日本史、国語学(語彙、音韻、仮名遣い)、文学・芸能(万葉・歌舞伎など)、地理等々が必要である。さらに、アートとしては、辞書等による調査方法や概説書等を読みこなす方法などが必要である。そして、興味関心を喚起するべく、魅力的な授業を実践することが求められる。
同様に「関ヶ原」の「ヶ」をなぜ「が」とよみうるのかについても、どのように答えることができるだろうか。
PISA型読解力について論ずる時、ややもすると、従来の授業実践をまず否定する立場から発言することが多く見受けられる。そして、知識をもっているだけの教員は、魅力的な授業を展開する人ではないと言わんばかりの偏った見方で、新しさを強調する論が見受けられる。
これは、おそらくいけない傾向でしょう。。
これは、おそらく危うい論でしょう。。
かねてから、義務教育の教員こそ、専門的知識があるべきだと思っている小生である。
「近江」の「近」は「おう」と読むと機械的に練習問題に取り組むプリントや教材をみるにつけ、教員こそ、習得・活用・探究を日々高いレベルで行うことが大切だと思うしだいである。
インプットからアウトプットという視点は当然だが、その習得・活用の軸を自在に縦軸にも横軸にも動かせる探究とは、専門的知識・技能に裏付けされていると思う。子どもにとっては「学習」における専門性の獲得ということにほかならないだろう。
すこし、固いことを書いてしまったかなと思いつつも、そのままにしておきます。書きたいことは、別のところにあったような気がしますが…。気が向いたら、続きを書きたいと思います。



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